先週、チームでの対話の中で「楽しい」という言葉について話していました。好きと楽しいは違うのではないか、なぜ楽しいかは人によるのではないか、といった問いが生まれる中で、私はあることに気づきました。
私は「仕事が楽しいことはいいことだ」と、何となく前提として考えていました。実際、エンジニアとしてソフトウェアを作ることが楽しいと感じていて、それが仕事になっていたので、楽しいことと仕事をすることは近い存在だったのです。
でも、なぜ良いのでしょうか?AIが仕事の一部を担うようになって、この「楽しさ」はどう変わっていくのでしょうか。あるいは変わらないのでしょうか。今回の記事では、「仕事が楽しいとなぜ良いのか?」という問いについて、考えてみたいと思います。
楽しさには構造がある
チームでの対話の後、CULTIBASEの動画「“プレイフル”を5つのキーワードに分解する」を見て、そこで語られていた楽しさと「合理・不合理」の関係性について考えてみたくなりました。
動画では、すぐにゴールに到達してしまうゲームは面白くない、ある程度の障壁を越えるなどの最短距離ではなく寄り道が必要なのではないか、という話がされていました。これを見て、私は楽しさには2つのパターンがあるのではないかと考えました。
1つ目は「不合理な状態を合理的にすること」。最適化がその典型例です。散らかったコードをリファクタリングして整理する、非効率なプロセスを改善する。これは初期のエンジニアの仕事に近く、私が楽しいと感じてきたものでした。
2つ目は「合理的なものをあえて不合理にすること」。ゲームやエンタメがそうです。最短距離でゴールに行けるのに、わざわざ障壁を作る。寄り道を作る。それが面白さを生み出します。
ここで重要なのは、「合理」も「不合理」も、ある一定のコンテクスト(文脈)の中での話だということです。何を合理的と見なすか、何を不合理と見なすかは、どの視点で、どのコンテクストで捉えるかによって変わります。これを限定合理性と呼びます。つまり、楽しさとはあるコンテクストでの合理と不合理を往復することなのではないでしょうか。
AIが仕事を担う中で、楽しさはどこへ行くのか?
生成AIが広く使われるようになって、一つの変化が起きています。AIが「定められたコンテクストの中での不合理を合理的にする」ことを得意としているということです。
課題を設定したら、AIがそれを合理的に最適化してくれる。課題設定からアウトプットまでのスピードは、圧倒的に速くなっています。これは、私がエンジニアとして楽しんできた領域でもあります。
スピードが上がるということは、前工程である課題設定にコストをかけることができるようになったとも言えます。一方で、課題設定を間違えるリスクも高まっているとも言えるでしょう。速く走れるようになったからこそ、方向を間違えると大きく外れてしまう。
では、「解く価値のある課題設定」とは何でしょうか?それは当事者にとって、チームにとって、組織にとって、あるいは業界や社会にとっての価値かもしれません。
ここで重要なのは、課題設定もまた限定合理性の中にあるということです。どこまで行っても、あるコンテクスト内での合理性でしかない。完璧な課題設定などありません。だからこそ、当事者が参加してこそ、解く価値のある課題設定が生まれるのではないかと私は考えています。
多様な視点、多様な合理性
ここで紹介したいのが、MIMIGURIでよく話題にあがる「探究のレンズ」という概念です。
https://note.com/yuki_anzai/n/n735b511937d2
記事では、探究テーマを「レンズ」と「対象」のかけ合わせで設定すると述べています。レンズとは、「どうしてもこういう視点で世の中を捉えてしまう」という考え方のクセのことです。それは、その人がこれまでの人生で獲得してきた個性であり、専門性であり、こだわりです。
例えば私の場合、エンジニアという職能的なレンズと、「ルール」という趣向的なレンズがあります。システム思考を通じて、組織やソフトウェア、業界や社会を、複合的・階層的なシステムやルール・制約の重ね合わせとして捉えてしまう。特に「なぜルールを変えられないと思ってしまうのか?」という問いが、私の中で繰り返し立ち上がります。
探究のレンズを持つと、自分には合理的に見えるが、外から見ると不合理に見えるという状態が生まれます。先ほど紹介したCULTIBASEの動画でも、自分にとっては合理的だが他者から見たら不合理に見える、という表現がありました。
そして、その「自分には合理的だが外からは不合理に見える」視点を、外のシステムの合理性に無理に嵌めてしまうこと。それが抑圧なのではないでしょうか。抑圧せずに、その「不合理」をシステムに持ち込むこと。それこそが、新しい「合理→不合理」を生み出す源泉になるのではないかと考えています。
個人の楽しさと組織の価値が接続する
探究のレンズを持ってシステムに参加するとは、どういうことでしょうか。
それは、一方的にルールや制約に縛られるのではなく、ルールをアップデートする主体になるということです。自分の持つ合理性とシステムの合理性のギャップに気づくこと。そこに違和感を感じられるセンサーを磨くこと。そして、それを声に出せる仕組みと関係性を作ること。
前回の記事「プロダクトを作ることはシステムに加担すること」でも書きましたが、システムに参加するとは、そのシステムの目的やルール・制約の背景を知り、考え、問い直せる状態になることだと思います。
探究のレンズを持ってシステムに参加すると、何が起きるでしょうか。
個人にとっては、新しい楽しさを見つけられます。自分のレンズで「どうしても見てしまう」ことを抑圧せず、それを起点に「合理→不合理」を生み出していく。それは、AIが担う「不合理→合理」とは異なる、人間ならではの楽しさではないでしょうか。
組織にとっては、解く価値のある課題設定ができるようになります。多様な探究のレンズを持つ人がシステムに参加し、それぞれの「不合理」を持ち込むことで、限定合理性の罠を避け、より広いコンテクストでの課題設定が可能になる。システムとして価値を生み続けるために、これは不可欠なことではないでしょうか。
仕事が楽しいとなぜ良いのか
探究のレンズを持って仕事をすること、システムに加担することは、個人にとっての楽しさを生み出すだけでなく、組織や業界にとっての価値創出にも繋がる。AIが仕事の一部を担うようになったからこそ、この接続がより重要になっていくのではないでしょうか。
今回の記事はCULTIBASEのプロダクト開発チームで「探究年表ワーク」をやってみたことがきっかけになっています。「探究年表ワーク」はMiroでテンプレートが公開されていますので、自身の探究テーマを振り返って考えてみたい方はぜひ実践してみてください。
