AIに関する新しいツールや手法が日々出てきます。新しい開発方法論、新しいフレームワーク、新しいエージェントの活用パターン。エンジニアとしてはワクワクするし、試したくなります。実際に試してみると楽しいし没頭もできます。
でも、それを繰り返すうちに、虚しさを感じるようになりました。楽しいし没頭もできるのに、何かが満たされない。新しいツールを試しても、新しい手法を導入しても、やり方が変わっただけで、できることの範囲は変わっていませんでした。何も新しいものを生み出していないという感覚。それが虚しさの正体だったように思います。
以前「AI活用で生産性の次に考えること」という記事で、AI活用において「自身の論を研ぐこと」と「分断を解消すること」を大事にしたいと書きました。
また「システムの変化とアウトプット」では、今年は抽象的な考察にとどまらず実践に繋がる探究をしていきたいと書きました。この数ヶ月、実際にAIエージェントと一緒にナレッジマネジメントの仕組みを作ってきた中で、この虚しさの構造が見えてきたので、書いてみたいと思います。
新しいツールや手法の導入は、土壌を耕す行為である
庭の比喩で整理してみます。庭で作物を育てるためには、まず土壌を整える必要があります。土を耕し、栄養を加え、水はけを良くする。新しいツールや手法を取り入れることは、こうした土壌を耕す行為に分類されるのではないかと考えました。
プロセスを自動化する、人がやっていた作業をAIに委譲する、開発生産性を高める。これらは組織にとって良い土壌を作るための大事な作業です。良い悪いではなく、そういう分類のものだということです。
問題は、耕す技術の進化が非常に速く、関心を持っていかれがちだということです。新しいツールが出れば試したくなるし、より良いプラクティスがあれば取り入れたくなる。エンジニアとして効率化や最適化に志向性を持っているからこそ、そちらに注目してしまう傾向があります。
その結果、気づいたら土壌だけが立派になって、その上に作物が育っていないという状況が生まれます。耕すことが自己目的化してしまう。種を蒔いても育つ前に掘り返してしまう。常に「もっと良い土壌にできるはず」と耕し続けて、何も育たない庭になってしまいます。
組織開発においても同じ構造があると思います。振り返りの習慣やルールのアップデートは、変化に適応するための重要なスキルです。しかし、開発生産性や効率化と同様に、組織開発もまた土壌を耕す行為であり、それ自体が目的化してしまうことがあります。行き過ぎると芽が育つ前に掘り返してしまう。技術環境も組織も、今は耕す時なのか、育てる時なのか。そのサイクルを見つけることが大事なのではないでしょうか。
私が感じていた虚しさは、ずっと土壌を耕し続けていて、その上に何も育てていなかったからだったのだと思います。
自分が何を良いと思うのか
そこで、前回の記事で掲げたことを実践してみようと考えました。AIエージェントを「部下」ではなく「思考パートナー」として設計し、人間だけでは気づけなかった知識の接続が見つかる体験を作ろうとしました。例えば、自分が書いたノートの内容をエージェントが別の文脈のナレッジと結びつけて、「この2つは繋がっているのではないか」と提案してくる。そういう、一人で考えていたら出会わなかった視点に出会える体験です。
効率化も、この仕組み作りも、どちらも没頭できるし集中できます。でも、効率化に没頭した後には虚しさが残りました。一方で、新しい知や繋がりが生まれる仕組みを作っている時には、その虚しさがない。この違いは何だろうと考えて、気づいたことがあります。自分が良いと思うものを作っているかどうか。それが、没頭の後に虚しさが来るかどうかを分けていたのだと思います。
ナレッジマネジメントの仕組みも、ある意味では効率化と捉えることもできます。でも、私がそこに感じている価値は効率化とは違うところにあります。それがなければ生まれなかった知が生まれること。それがなければ生まれなかった繋がりが生まれること。やり方が速くなるのではなく、できることの範囲が広がる。その体験を作れるかどうかが、私にとっての「良いもの」なのだと思います。
「仕事が楽しいとなぜ良いのか?」で書いた合理と不合理の往復もここに繋がります。効率化(不合理→合理)は、その上に何か新しいもの(合理→不合理)を生み出すための土壌です。土壌を整える楽しさと、そこから何かが育つ楽しさは、どちらも大事ですが、同じものではありません。
耕すことと育てること
以前の記事で大事にしたいと書いたことを、実際にプロダクトとして作ってみました。そこでわかったのは、考えとして持っているだけでは足りなくて、作るプロセスの中でそれを実感できるかどうかが大事だということです。自分にとって意味のあるものを作れている、良いと思うものに没頭できていると感じられること。その実感が、虚しさのない没頭を支えていたのだと思います。
耕す技術の進化が速い今、関心が向くままに任せていると、作物を育てたい人も気づかないうちに耕し続けてしまいます。それに抗うためには、自分が何に対して「良い」と感じているのかを言語化すること。そして、そこに没頭できているかを振り返ること。今回の実践は、私にとってまさにその言語化と振り返りのプロセスでした。
良いと感じたものをどう育てるのか。そのために技術をどう活用できるのか。耕すことと育てることのサイクルをどう作り、バランスが崩れたことにどう気づくのか。今回はたまたま虚しさが気づきの起点になりましたが、もっと早く気づける方法があるかもしれません。引き続き、作りながら考えていきたいと思います。
