自動運転と人の選択

note でも読む ↗
自動運転と人の選択

昨日、朝5時に起きて特に目的もなく車でドライブをしてきました。アクアラインを抜けて京葉道路を抜けて東京に戻るルートで、天気は曇りでしたが秋のさわやかな風を感じながらの快適な2時間半でした。渋滞を避けたかったので早めの出発にしたのですが、アクアラインが少し渋滞していて京葉道路の下りも渋滞していたので、逆回りだともう少し時間がかかったのではないだろうかと予想しています。今度は逆回りも行ってみたいです。

コロナ禍で外出する機会が減ったのと自動運転になったら運転する機会もなくなるかもしれないと考えて2021年に自分の車を自分で運転するという経験にお金を使おうと思い車を買ったのです。あれから4年が経ち、最近になって車を乗り換えました。

前の車もそうでしたが、最近の車には運転支援の機能が付いており、慣れるとアクセルを踏まなくても支援機能のON/OFFとウインカーの手元の操作のみでほぼ運転できてしまいます。自動運転レベルでいうとレベル1の運転支援ですが、体感的にはレベル2に感じています。私はまだレベル3以上の自動運転を経験したことがないのですが、手を離してもよそ見しても大丈夫というのはどういう気持ちなのだろうか気になります。

話は飛びますが、手続き的知識と宣言的知識の違いについてです。前者はAならばBという経験に基づくハウツーで、後者は概念や理論的なものです。自動化が進んだ世界では最終的にどこに行きたいか・行ったか、ということが人の仕事・経験になるのではないか。運転が少しずつ上達するとか、道中で思いがけない発見があるといった経験は減るでしょう。Googleマップによって道を覚えなくなることで失われたものは何か。同じようなことが自動運転についても起きるのではないか。

運転支援があることで人間の負荷が減り一人でも遠くまで行けるようになったと考えることもできます。さらに、人間のリソースを運転以外の別のことに使えるようになった、と捉えるならば、物理的に遠くに行くことに使うか、それ以外のことに使うか、という選択肢が増えたということになります。移動中に映画を見ても良いし、自動運転を切って運転の練習をしても良い。運転が楽しいなら運転すれば良いし、移動できれば良いなら移動を楽しくすれば良い。

つまり、車を運転するという仕事は自動運転によって奪われるのではなく、選べるようになったということではないか。もちろん、お金をもらう仕事という話であれば費用対効果の話になります。プロのドライバーであれば、人が運転することでどのような効果を生み出しているのかを伝えられる必要があります。それは運転や移動に対する責任かもしれないし、他の人を楽しませる何かを生み出しているからかもしれない。

こうしたことを自分の仕事と重ねて考えてみたりしました。